歴史

蓮如上人から教えを頂いた栄久法師の墓碑。総墓の一番上にある。

 廣善寺は浄土真宗東本願寺派(本山:東京浅草の東本願寺)の末寺で門信徒四〇〇戸を擁する寺院になります。山門に十六紋菊の御紋をいただいております故は、廣善寺が勅願寺として開創された名残であると伝えられております。もとは「薬王山廣善院」と寺号を名乗っており、ご本尊は薬師如来様をお祀りしておりました。
 平安時代の開基とされ、真言宗から天台宗を経て、浄土真宗に改められたのは蓮如上人(本願寺第八代御法主)の吉崎御坊のご布教中であり、蓮如上人よりこれまでの「廣善院」の寺号を「廣善寺」に改号の御命を頂戴し、今の寺号がこの時より始まったのであります。

石山合戦図、激戦であったことがよくわかる。

 時は戦国期の元亀元年(1570)織田信長公は手中に収めていた京都より三万の兵を擁し大挙して当時の御本山である大坂石山本願寺に攻めかかりました。これまで信長公に京都御所再建費用の名目で矢銭五千貫等をまかなって従順な姿勢を取っていた顕如上人(本願寺第十一世御法主)は、大坂の御本山を退去するよう信長公に迫られ、ついに御本山護持の兵をあげられたのです。
 顕如上人は全国の門徒同行に檄文といわれる御文をおだしになり「大坂石山に馳せ参じよ」と呼びかけをされました。この呼び掛けに呼応して、廣善寺の時の住職である了誓法師は月田了誓と名乗り、全国から上坂した同行のなかでも二十三番目に駆けつけ織田軍の攻撃から奮闘防戦したと伝えられております。

了誓法師の墓碑。福井市下一光に現存している。

 天正三年(1575)八月、信長公は柴田勝家公・羽柴秀吉等なだたる武将をひきつれ岐阜城を出発し、越前一向一揆の討伐を行い、根こそぎ関係の寺社を焼き払い、殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命令されたのでした。
 この時旧清水町小谷にあった廣善寺も焼き討ちに遭い、了誓法師は下一光村(現在の福井市下一光町)へ逃げ込まれ、村人に船窪という山中に隠まわれ、信長公の探索の目をようよう逃れられたのであります。
 了誓法師はよくよく剛の御気性で、天正八年(1580)顕如上人が朝廷の斡旋で信長公と和議を結び、和睦に至り、石山本願寺を退去されました後、教如上人(東本願寺御開創:第十二世御法主)が反信長を旗印に再決起を断行されますと、再び大坂石山本願寺へ駆けつけて籠城に至り、法灯護持の誠を尽くされたのでした。

総墓から下一光方面を望む。

 なお下一光の船窪に隠まわれた時、織田方役人の目をそらすため了誓法師は自身の偽墓をお建てになり、この場所すなわち下一光船窪入り口には現在も偽墓の記念碑が建てられております。廣善寺ではこの時の下一光門徒の恩に報いるため、毎年年頭・お盆に下一光門徒をお迎えし、丁重に遇するしきたりを平成の今でも伝えております。

杉谷村桂連神社の由緒書

浄土真宗東本願寺派 廣善寺

〒910-3607 福井市清水杉谷町5-40