住職法話集

 聖人一流の御勧化(ごかんげ)のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
そのゆえは、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をなげすてて、一心に彌陀(みだ)に帰命(きみょう)すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。
その位を「一念発起入正定之聚」(いちねんほっきにゅうしょうじょうしじゅ)と釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽(ごおんほうじん)の念仏とこころうべきなり。あなしこ、あなかしこ。

 廣善寺では各ご門徒のご家庭で営まれる「報恩講」のお参りでおあげ致しますのが、この聖人一流の御文様です。蓮如上人が御制作されましたこの御文は親鸞聖人のいわれた文言を100のものを10にしぼって、また10のものを1つにと誰でも読みやすく理解しやすく御制作されたものであります。
 親鸞聖人から蓮如上人まで京都本願寺(蓮如様当時は東西に別れていませんでした。)に伝わって居る親鸞様がおすすめされて居るご主旨はというと、「信心をもって本と」しておられると、御文の冒頭で述べられています。

 仏教には聖道門(しょうどうもん)と浄土門(じょうどもん)という2つの入り口があります。聖道門は禅宗・日蓮宗等のご自分の修行の功徳(くどく)によって往生がかなうという教えであります。また浄土門は浄土宗や浄土真宗のように南無阿弥陀仏をとなえて往生がかなうという教えです。浄土門の中でも色んな宗派があるのですが、我々の宗派は浄土真宗なので浄土門となります。さて、この浄土門なのですが、誰に向かって南無阿弥陀仏をとなえているのでしょうか?なぜ、何の為に南無阿弥陀仏をとなえるのでしょうか?こんな疑問をもたれたことはないでしょうか。

 廣善寺の本堂の御本尊はどなたかご存じでしょうか?この前、清水東小学校の子ども達が「町探検」という課外授業でお寺を訪ねてきてくれました。そのときに同じ質問をしたのですが「ほとけさま!」「おしゃかさま!」「えんまだいおう!」いろんな意見を聞かされた時には思わずほほえんでしまいましたが、中には「あみださま!」と言ってくれる子どもさんがいてホッとした事です。そうですね浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来という仏様です。

———信心為本(信心を本となす)———

 よく一般的にこの御本尊である阿弥陀如来様を信じる心が「ご信心」であるといわれている事があります。浄土門の宗派の中には、信じるのは無しにして、もうとにかく念仏をとなえ百回でも万回でもとなえる事が大事だという宗派もあります。

 廣善寺でも報恩講で読まれます「御伝鈔」の中に親鸞様の御在世当時にこんなエピソードが書かれています。「信不退行不退」といわれますが、親鸞様は法然様のお弟子で京都の吉水という所で法然門下のお一人となっておられました。そんなある時に親鸞様は御師匠の法然様に「私は長く聖道門にいましたが阿弥陀如来の救いを頂ける浄土門に入らせて頂いて本当に良かったと思っています。できれば御門弟の中で阿弥陀様のお救いは『信心』によるのか、『念仏行』(念仏を何回でもとなえたり、念仏修行のこと)によるのか座をもうけて御門弟の皆さんに問いたい」とおっしゃり、翌日に信不退の座と行不退の座をつくられました。「御門弟のみなさん、信不退行不退のいずれの座に着くかを示して頂きたい」とおっしゃり沢山のご門弟は行不退に着座され、親鸞様ほか三人のご門弟は信不退に着座されました。最後に御師匠の法然様は「法然も信不退にまいる」といって信不退に着座されたのです。法然様が信不退に着座された事で皆一様に驚かれたとも書いてあります。

 今までのお話は御伝鈔に書かれているエピソードではありますが、仏教で言うところの往生や救いは念仏行や苦行修行を、すればするほど救われるように思われがちです。浄土門は阿弥陀様ご自身が「我を信じよ。南無阿弥陀仏をとなえよ!信じるもの必ず救う」と言われているのです。念仏行ではなくいずれのご縁をもよおしても自ず(おのず)と南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏がわき起こってくるのが浄土真宗のお念仏であります。

 修行をする事は大変立派な事だと思います。お釈迦様と同じ苦行をすればいずれ悟りを開けることはいうまでもないのですが、しかし、我々は凡夫(ぼんぶ)でしかも今勤めている会社を辞めて修行にうちこめるなど到底出来っこないのです。そこで阿弥陀様を「信」じることによって、娑婆(人間)の世界が終わりになりましたら、光り輝く阿弥陀様の極楽に往生させて頂けると信じることを浄土教の要としているのですね。

『廣善寺講話 平成28年11月より / HP掲載 平成29年12月』

浄土真宗東本願寺派 廣善寺

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